電磁波に撃たれて眠りたい!

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5日間のSNSデトックスにトライしてみた

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2019年の夏休み期間の後半を使い、前からやってみたかったSNSデトックスを5日間だけやってみました。

やった事は、

  1. SNSに繋がない
  2. Macに触らない
  3. スマホは触ってOK

この3つだけです。途中、夜中に一瞬だけつないでしまいましたが(汗)たった5日間とはいえ、かなり色んな教訓を得ました。

得たことと考察をひとつずつ書いてみます。

➡ 家族との時間はほぼ変化なし

これは非常に残念なことです。。。

そもそもSNSを断った結果生まれた時間を本来は家族との時間に使いたかったからはじめたトライアルでもあったのですが、結果家族との時間はあんまり変化がありませんでした。正直いって根本解決をしないと相当マズイことになると思いました。

⬆一人で考え事をする時間が増加

これは良い結果でした。Macを開かないことでアナログ=紙やペンを使って頭を整理する時間が増えたり、ひとりでボーッとする時間を取ることができました。日中帯は朝から晩まで仕事や家族に関係することばかり考えていて、ひとりでボーッとする時間を持つことなんてほぼ出来ませんでしたが、この5日間で何度かはそんな時間を持つことができました。

⬆スマホを使いSNS以外のことをする時間が増加した

大問題です。

結局、スマホを触る機会が減るのかと思いきや、PCを触らなくなっただけでスマホばかりかiPad miniに触る機会も増え、結果ゲームをしたり別のアプリを使ったり、Kindleを読みふけったり、Webで調べものをしてハマったりと、スマートデバイス滞留時間はむしろ増えてしまいました。

これらを一人の時間にやるのは勝手でしょう。しかし、家族との時間を犠牲にしてまでやる必要はあったのでしょうか?

「スマートデバイスに生活習慣が侵されているのかもしれない」

こんなことを意識したのは、今回がはじめてでした。

⬇写真を撮る頻度が激減した

SNSに繋がなくなったことで撮影した写真を投稿する先がなくなります。その結果、自分がまったく写真を撮影しなくなっていたことに気づきました。これもかなり面白いデータでした。得られた知見としては2つあります。

ひとつは、「いかに自分がSNSに依存しているかよく分かった」ということ。

本来個人が撮影するプライベート写真というのは自分や自分の身内で楽しむもので、SNSシェアしてみんなの反応を伺うようなものではなかったはずです。この「SNSドリブンの写真撮影」は、Instagrammerと呼ばれる人たちに代表されるようにそれも新しい文化といえば文化なんでしょう。私自身は自分の行動記録としてSNSに投稿していたつもりでしたが、投稿する機会を奪われたことで写真撮影する回数が激減した、ということはつまり写真撮影はSNSへの投稿とそれによるみんなの反応を見たいがためにやっていたことになります。これはけっこうなショックでした。

もう一つは「写真を撮らなかったことで得た時間を何に使っていたか?」ということ。

結論から言うと、家族を見たり景色を見たり、肉眼やカラダ全体で外の世界を感じる時間に当てていたような気がします。

「誰かに見せるための写真を取る」ということを主軸においてしまうと、自分がどう感じたかではなく、他人にどう見せるか?どう見られるか?だけを考えた行動になりがちなのかもしれません。しかも最悪なことにこのアプローチだと、景色を切り取ることや人の写真の写り方ばかり気にとられてしまい「純粋にいまそこで起こっていることを感じる」という最も重要なことを後回しにしてしまいます。

普段の生活、出かけた先で、その場で起こっていることを感じずに、誰かに見せることばかり考える。これほど虚しいことはありません。

⬇ニュースフィードを殆ど追わなくなった

普段ニュースフィードをPCを使って追っているからか、この期間中ニュースを追うことをしなくなりました。あっというまにfeedlyの未読が1000以上溜まり、そのたびに全選択して既読にしていました。完全に浦島太郎といっても過言ではありません。

またSNSから入ってくる情報もゼロになったことで、誰かのポストに引用されているフィードを読んだり、関連する情報を追跡検索したりといったこともしなくなりました。結果、SNSに引きずられて別の作業に時間を使う、といったこともなくなりました。

これは次の項目に繋がります。

⬅えも言われぬ不安に駆られる

SNSに触れないことで、自分の所属するクラスタの周囲で「いま」起きていることがまったく分からなくなります。いま世の中に何のニュースが出ていて、みんながそのうちの何に注目していて、何を考えているのかといったことが一切分からなくなる。浦島太郎というよりも、「音信不通の場所に海外旅行に行ってきた」ような、妙な感覚を覚えました。

またニュースフィードを追わなくなったことで情報ソースが自分の周囲にいる人から聞く話とテレビのニュースと新聞だけになり、えも言えない不安感に襲われました。しかし、よくよく考えると世の中の殆どの人はこの限られた情報ソースの中で普通に生活しているはずです。彼らは、その限られた情報ソースの中で生活していてなにか困っているのでしょうか?そんなことはないはずです。

しかしこの10年くらい、私はいろんな情報ソースをそれこそ浴びるように読むことを無意識にしてきました。

「もしかして、「知らなくてもいいこと」を「知ってて当たり前」だと、勘違いしていたのか・・・」

なぜならこのデトックスの間、それらの情報ソースが無くても何の不自由も無かったし、SNSデトックスを明けてこの記事を書いている現在でも別に何の問題も起きていないからです。つまり、過去の私は「なくても死なない情報を必死になって集めて知って悦に入っていた」ということになります。

たとえばそれが自分の大切な趣味や生活、命に関わることであれば話は別でしょう。しかし、ただでさえ少ないプライベートの時間を削ってまで、大切でも必要でもない情報を読み込んでいたとなれば、それはただの時間の浪費です。

一体、何が原因だったのか?

今回のデトックスでやりたかったことを思い出してみます。

それは

「家族との時間を増やす」 「一人で考え事をする時間を増やす」

この2つにつきます。しかし今回のSNSデトックスでは、正直いってうまくは行きませんでした。

そして問題の原因も、大きく分けて2つだと思います。

1つ目は、「適材適所が徹底されていない」

いまの時代、PCを使わなくてもスマホさえあればだいたいのことが出来てしまいます。例えSNSを断ち、PCの利用を止めたとしても「焼け石に水」であり、デバイスがスマホしかなければスマホでやろうという動きをとってしまい、かつそれは効率の良し悪しはあれど、だいたい完遂できてしまいます。(例:Gmailの確認、Teamsに添付されたパワポの確認、Slackに長文のレスを打つ等) とはいえ、例えばスマホの利用を完全にやめるといったことが本当の対策になるのかというと、それは違う気がします。

問題なのは、「適材適所がなっていない」ところにあり、スマホでもPCでもできることをスマホでやろうとし、そして出来てしまうことに最大の原因があります。PCでやるべきことはPCに集約し、スマホでやるべきことだけをスマホでやれるように環境を整える必要があるということです。自分に対して、あえて選択肢を奪うような方向での環境整備をする。これこそが適材適所というものでしょう。両方用意しておいて人間が判断すればいいじゃん、と言われてしまいそうですが、それができるならこんなことで悩んだりしません。

2つ目は、「棚卸しと断捨離がされていない」

先の適材適所にも関連しますが、「必要ないもの」がスマホやタブレットに入っていたことが時間を奪う原因の一端になったのは言うまでもありません。ここでいう必要のないものは、ゲームのような単純な時間泥棒もありますが、使う必要がないのに残していたり、PCとスマホの両方に入れているものも含まれます。 いわゆるアプリの棚卸しと断捨離が行われていないことが、時間を浪費した結果につながったと推測します。

さて・・・・

SNSデトックスを終えて得られたのは、

「できることを適切な場所にだけ揃えて、自分が考えなくてもそれらが選ばれるようにする」

という、極めて真っ当でシンプルな教訓です。

はっきりいって、「知ってた」と言い切れてしまうようなレベルの話です。 しかし、なんとなく気づいていたけれど、それを再確認できたというのはとても良い機会でした。

ありとあらゆることが、今いるその場所から、すぐにできる時代。 15年前では考えられないほど、いろんなことが外出先でかんたんにできるようになりました。

でも、便利になったことで減った時間以上に、その便利を実現するスマートデバイスが「別のなにか」を普段の生活に突っ込んできてる。 これを自制心のみでコントロールするのは、よほどできた人間ではないと難しいと思います。

ミニマルな生活に戻すということが、もしかしたら本来の人間的な生活に戻すきっかけになるのかもしれません。

できれば近々、良いタイミングでやってみたいなと思います。